宗教から見た世界 「コロナ禍の世界」から見る宗教

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宗教から見た世界 「コロナ禍の世界」から見る宗教

05月24日号

今般の新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は、結果的に・・・・、宗教に対する社会の眼差しをあらためて浮き彫りにした。
まず、世界各地で、宗教行事や礼拝の場がクラスター感染源として報告された。韓国では新興宗教団体の集会が初期のクラスターとなったほか、インドやマレーシアではイスラームの礼拝で、またイスラエルではユダヤ教「超正統派」の礼拝で、同様のクラスター感染が発生した。

「集う」ことは人間の社会生活全般の基盤だが、多くの宗教にとってそれは、語り合い、触れ合い、共に祈り、共に弔い、共に悼む、といった〝特別な意味〟を持つ。こうした宗教の共同的な行動に対し、このパンデミックは、結果として根本的な制限を加えることになった。

さらに社会の眼差しは、今回のウイルスの世界的感染を、何か意味あるもの・・・・と見なす宗教の態度に対しても向けられた。科学的には、ウイルスには何ら特別な意味・・はない。そのため、このパンデミックを「神罰」や「試練」として捉えることは、科学的・世俗的価値観からすれば的外れであるばかりか、極めて危険なものとして映ることになる。

こうした状況に鑑み、世界保健機関(WHO)は宗教指導者らに対し、宗教儀礼や行事における具体的な提言を公にしている。また、国連のグテーレス事務総長も、このコロナ禍で先鋭化しつつある差別や暴力に対し、宗教指導者が社会にメッセージを発するよう呼びかけた。つまり、宗教には、社会が期待する・・・・・・・発信や活動こそが求められているということが、今回あらためて浮き彫りにされたのである。

だが他の分野の多くの識者が、この難局を一つの転機と語るように、宗教もまた、この機を新たな時代へと「脱皮」するチャンスとして捉えることもできるのではないか。「コロナ後の世界」では、宗教にはさらなる知恵・・が求められることになるだろう。もちろん、そこでも宗教は、世界を覆い尽くす病の意味への思索を決して手放すことはできないし、またそうすべきでもない。むしろ、そこであらためて問われるのは、「新しい日常」を前提として更新された救済のビジョンの発信様式・・・・・・・・・・・・であるように思われる。

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