「みかぐらうた」九下り目
九ッ こゝでつとめをしてゐれど むねのわかりたものハない
3月の本部月次祭および春季霊祭は、新型コロナウイルス感染拡大に対する社会全体の取り組みを踏まえて、教会長はじめ、ようぼく・信者は参拝を控えることになり、代表して直属教会長、教区長の参拝のみで勤められました。
当日、天理教校の職員と学生は学校や寮などから遥拝しました。本部神殿にほど近い場所にいながら、月次祭に参拝できないという出来事をお見せいただいたことを思案する中で、自分自身の心のあり方を、もっと見つめ直す必要があると感じました。
「九ッ こゝでつとめをしてゐれど むねのわかりたものハない」
このおうたでは、この屋敷でおつとめをしているけれども、親神様の胸の内を分かった人はいないと仰せになっているのでしょう。
教祖がひながたの道においてお急き込みになられたように、おつとめをすることは、親神様がお喜びくださることですが、それとともに、どのような親神様の思召とご守護のもとに人間は生きているのかを「わかる」ことで、自身の心を澄ましていくことをお促しになっているのだと思います。
私たち人間は、親神様のご守護が満ち満ちた世界に、心一つを我がものとして生かされて生きています。朝夕のおつとめをはじめ、月次祭や霊祭の日に、おぢばや教会へ足を運び、おつとめを勤めるとともに、親神様の思召を思案し、心を澄ますように努めさせていただきたいと思うのです。(松)