感染症事情の「おさしづ」を読む

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感染症事情の「おさしづ」を読む

05月24日号

19世紀末、中国を起源とするペストが世界中へ広がった。1899(明治32)年に日本に入ってきてから1926年までの27年間に大小の流行が起こり、感染例2905人(うち死亡例2420人)が報告されている。

その最中の明治32年、警察から教会本部に対して、ペストの感染予防のうえから秋季大祭を延期するよう要請があった。そのことについて示されたのが次の「おさしづ」である。今日の感染症の事情とは背景が異なるが、一つの視点に資するならばと、大意の解釈を試み、あらためて読ませていただきたい。

明治三十二年十一月二十三日(旧暦十月二十一日)ペスト病予防のため秋季大祭延期の事を、警察より忠告により御許し願
「(大意)尋ねている件は、すでに世界中で起きている事情についてである。疫病の感染防止という世上の道理に皆が責められ、絡まれている。そして今日は、道の者も考えを改めて秋季大祭を『延期にさせていただきたい』と願い出ている。このような状況であるから、それでよい。警察からどのような要請があっても『はい、はい』と応じておけばよい。どうしても当局には従わなければならない日もある。大祭は延期をしてもよかろう。これは皆が成程と納得するであろう。

先に延ばそうといっても本来、大祭は延ばすことのできない理である。しかしながら3年前の内務省訓令以来、当局の厳しい統制下にある本教は、どうにかこうにか存続していくために、やむなく当局の要請に従うのである。

このようなことは、ほんの前ぶれであって、水に例えると、今後の道のうえに、どこからどんな水が流れ込んでくるような事情があるかもしれない。そこで、以前に刻限の『おさしづ』によって諭したように、掃除が必要であり、掃除に掛かれば道具が必要である。多くの道具(人材)を揃えるための何か手がかりになることを始めるのである。

いまのところは、『当局の要請だから従おう』と深刻にならないように皆を治めてやれ。寄り来る者の中には、どういうことだと言う者もあるかもしれないが、本部の思いが分かれば、確かにその通りだと納得するであろう。心配はいらない。
しかし、皆にとって最も大切な理は何であるかという答えが知りたいであろう。それは、どんな事情の中も決して動くことのない皆の心の神一条の精神である。いまは、当局の要請だから仕方がないという道理もあるであろう。皆がこのようにさせていただきたいと願うならば、神は皆の判断に任せるので、秋季大祭を先に延ばしても、繰り上げても構わない。そのような形のことよりも、皆の心に神一条の精神があれば、神はその真実の心を受け取るのである。たとえ形のうえで真実におつとめを勤めたとしても、皆の心があちらを向いていたり、こちらを向いていたりと、ばらばらの勝手な心ではどうにもならないのである。
当局が『こうしなさい』という通りにして置くがよかろう」
節に際して、形のうえでは御教え通りにおつとめを勤めることができない状況にあっても、決して変わってはならないのは人々の神一条の精神であることを強調される。その心を受け取ると仰せられるのである。たとえ形のうえでは真実に勤めているようであっても、人々の心がそれぞれに勝手なほうを向いて一手一つの理を欠いているようでは、どうにもならない、と戒められている。

「おさしづ」(大意)の中で、傍線を施した部分の「以前の刻限の『おさしづ』」とは、明治32年11月2日の次の刻限の「おさしづ」を指していると思われる。

「(大意)いまや、この道の状態は、万事にわたって旬が迫り、切羽詰まった状態にある。それを外から見れば、まことにすっきりしていないように見える。だからこの際、旬の理に目覚めて、掃いたり拭いたり、すっきりと掃除する必要があるのである。ところで、掃除にかかれば当然、箒もいるし、そのほか、いろいろな道具も必要である」

当時、本教は明治29年に発令された内務省訓令による厳しい統制下にあり、前橋事件(明治30年)など内憂外患の事情の続く中にあって、「婦人会の設立について」「別席台本制定について」「学校設立について」、それぞれ明治31年の「おさしづ」によって準備が進められていた。これら3件は、いずれも先の「おさしづ」で「道具」に例えられた人材の育成につながるものである。節から芽を出す、ご神意と拝する。(人)

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