文芸連載小説
保苅青年の運転する小型トラックが農場に帰ってきた。荷台には鶏糞が積まれている。カンが卵を仕入れている養鶏場からもらってきたものだ。豆腐屋やスーパーマーケットからもらってきた豆腐のカスや米ぬかなどを加えて、スコップで丹念に混ぜ合わせる。さらにビニール袋に入れて何週間か寝かせておくと、発酵が進んで良質な肥料になる。
農場で除草された草なども一カ所に積んでおく。するとミミズやゲジゲジなどが半年ほどかけて分解してくれる。これを畑に戻すと、やはり肥料になる。発酵させた鶏糞も畑に投じられる。草と鶏糞は力を合わせて畑の土を豊かにする。そうして育った野菜が人々の口に運ばれる。
人間が「雑草」と呼んでいるものや鶏糞は、ブロッコリーやホウレン草やラディッシュなどにかたちを変えて、彼らの腹のなかに入る。犬のわたしとしては、ちょっといい気分だ。伝え聞くところによると、「夫婦喧嘩は犬も喰わない」というひどい言葉があるそうだ。わたしたちが鼻をクンクンさせて、なんにでも興味を示す動物と思っているのだろうか?
「雑草や害虫っていう言い方はしたくないな」。いつかカンの店で食事をしているときに保苅青年は言った。「そんな言葉を新太には教えたくない。人も動物も自然も一つの世界で力を合わせて生きている。そう考えるほうが好きだな」
「害虫は駆除するしかないものね」。ハハが同意するように言った。「雑草は抜いて焼却する」
「ゴミも同じですよね」。のぶ代さんがつづけた。「袋に詰めて終わり。でも他の国へ持っていけば、まだ使えるものや有用なものになって、ゴミがゴミでなくなる。なんでもゴミにしてしまうのは、わたしたちの身勝手かもしれない」
さすがに草と鶏糞で育てた野菜を好んで食べている人たちだけある。言うことが、いちいち理にかなっている。
「循環しているものはつづいていく」。保苅青年が深遠な哲学でも語るように言った。「人や動物の命が、身体のなかを流れる血液によってつづいていくのと同じだよね。流れが滞ったり途絶えたりすると、命は失われてしまう」
失われた命はどこに行くのだろう? どこにもいかない。はじまったものは終わらずにありつづける。生も死も所詮は人間の言葉である。「夫婦喧嘩は犬も喰わない」と同じだ。自然のなかには生も死もない。保苅青年が言うように、流れがあるだけだ。だからわたしは、いまもここにいて、カンや彼の家族や友だちのことを見守っている。