文芸連載小説

作/片山恭一  画/リン

第5話
自分はひとりではない

2022年02月23日号

カンが写真を撮るのは、主に海に出かける早朝か、食材を仕入れるために省吾さんの農場へ向かう午前中だ。海や波や空の写真のほかに、植物や虫や小さな生き物たちの写真もたくさん撮っている。

〈小学生のころ、ひとりぼっちと感じることがありました。そんなときは小さな自然に目を向けます。虫や草花や小鳥たち、海岸には潮だまりに閉じ込められた魚たちがいます。こうした生き物たちと言葉をかわしているうちに、自分はひとりではないと感じるのです。〉

天気によって、また時刻によって、地上に降り注ぐ光は刻々と変わる。移りゆく光のなかで、海も空も草も木も輝きや色合いを変えていく。同じものは二度と現れない。何万年、何億年ものあいだに、たった一度だけ訪れる。その一瞬にカンは魅せられている。

レストランのほうは一人で切り盛りしている。忙しいときには、パン屋のほうをアルバイトの女の子にまかせてハハが加勢にやってくる。

だから日曜の昼時などに、小学生くらいの子どもを連れた夫婦がレストランにやって来ても、ゆっくり話し相手をする暇はない。そもそもカンは、いまでも極端に口数が少ない。店で発する言葉といえば、「いらっしゃい」と「ありがとうございました」のほかには注文をたずねるくらいだ。

昼の客が帰って一段落したころに、何時間も粘っていた親たちが、おずおずと話しかけてくる。そしてブログに書かれていた話を、もっと詳しく聞きたがったりする。文字を左右反対に書いたり、算数がわからなかったり、時計が読めなかったりしたこと。とりわけ言葉を喋らなかったこと。

そういう質問に、カンはほとんど答えない。ただ曖昧に微笑んでいるだけだ。親たちは落胆した様子で、ちょっと困ったように目を見交わしている。

あの子は小型のタブレットを持ってきてテーブルに置き、退屈そうにしている子どもに自分が撮った写真を見せる。波や空のさまざまな表情、道端の草花や小さな虫たち。

〈地面に根を張ったタンポポは、春になると黄色い花を咲かせ、やがて白い羽毛を開いて旅をします。遠くまで、遠くまで旅をするんですよ。〉

子どもは自分でスクロールしてつぎつぎに写真を見ていく。何も言わないけれど、何かが届いていることが感じられる。いつのまにか親たちも一緒に見ている。

帰っていくときには、親の顔も子どもの顔も、来たときよりもいくらかやわらいでいる。子どもは店のドアのところで「バイバイ」と手を振る。そんなときはカンも手を振って「バイバイ」と答える。

第2部相関図