文芸連載小説
ときどきビョーンさんは、夕食をとるためにカンのレストランを訪れる。彼に言わせれば、省吾さんのところの豚肉も、のぶ代さんが作るソーセージやベーコンも、故国ドイツのものに劣らずおいしいのだそうだ。これらの肉料理にポテトとキャベツの漬物を添え、冷たいビールをテーブルに運ぶと、彼の顔はみっともないくらい幸せそうにほころぶ。
その日は、ハハとカンも食事に加わった。ハハは学生のとき訪れたドイツで食べたパンによって人生が変わったという人なので、ビョーンさんとは話が合う。
「ドイツにそんなうまいパンがあるとは」
「なんの変哲もないライ麦パンなんだけどね」
カンはテーブルを立って、新しい料理を運んできた。そのあいだも二人はパンやビールやワインの話をしていた。
ハハによると、パン作りでいちばん大事なことは、いい小麦を見つけることらしい。小麦は生命力の強い植物なので、暑い土地、寒い土地、高地でも低地でも栽培され、世界中の人々の主食になっている。一万種に及ぶという小麦のなかから産地を選び、品質のいいものを厳選し、さらにイーストや焼き方、他に加える材料なども工夫して……。
ディナーも終盤に近づき、カンがサーバーにコーヒーを淹れて戻ってきたとき、ハハはさとしのことを切り出した。
「ドイツでもやっぱりそういう問題はあるの?」
驚いたことに、ビョーンさんの国では毎年大勢の女性が夫やパートナーによって殺されており、その数はヨーロッパでも一、二を争うほどだという。
「いま政府がキャンペーンをやっています。日本語でいうと、わが家は安全ではない」
ハハはかなりショックを受けた様子だった。無理もない。自分が理想とするパンと出会った国が、そんなひどいことになっているのだから。ビョーンさんの妹はソーシャルワーカーの資格をもっていて、被害者の女性や子どもたちを支援する施設でスタッフとして働いているらしい。
「シェルターみたいなところ。女性が夫やパートナーから逃げてくる。悲しいね。そんな施設がドイツにたくさんある。ヨーロッパ中にある。でも全然足りない」
不思議なことだ。好きで一緒になった相手に暴力を振るったり、ときに殺してしまったりする。どうしてそうなるのかわからない。犬は気の合った相手を噛み殺したりはしない。他の動物だってそうだろう。人間だけが特別なのだ。