立教185年(2022年)7月13日号掲載分
さんさい - 5月号
言葉に思いを込めて
現在、私は6人の子どもをお与えいただき、教会では教会長夫人という立場です。「育てる」側になって改めて、自身が子どもの頃に掛けてもらった言葉を折に触れて思い出し、その影響の大きさ、大切さについて考えるようになりました。
はじめに、私の昔話に少しお付き合いください。私は教会に生まれ育ちました。生家の母は「近所の人に『天理教さんの子は違うなあ」と感心してもらえることが、子どもにできる、にをいがけなのよ」と、日々の通り方について教えてくれました。それはとても素直に心に治まり、子どもながらにそうありたいと心掛けていました。また『みちのこのうた』をよく歌ってくれました。『おやがみさま』『おやさまおうまれ』『いのり』『ひのきしん』などなど。歌詞には子どもにも分かるように易しく教えが表現されていますから、自然と心に響きました。そういった、心に抵抗なく聞けていた言葉もあれば、苦手に感じる言葉もありました。例えば、「おつとめですよ!」一言。観たいテレビ番組に後ろ髪を引かれながら、「面倒くさいな」という気持ちが強かったことを覚えています。また、事あるごとに「お姉ちゃん(私は長女でした)、たんのうよ!」と言われましたが、「教会の子は我慢ばっかり!」と不満に思っていました。
心にスッと治まる言葉、口うるさく感じる言葉、この違いは何だったのでしょう?だんだんと成長するうちにおつとめの大切さやたんのうの意味を知り、「もっと早く知っていれば、素直に実行できたかもしれない」と感じたのでした。しかし、親にもきっといろんな道中があり、思いを丁寧に伝えられた時もあれば、分かってくれているつもりで説明を省いてしまうこともあったのだろうと、今ならよく理解できます。
そんな自身の体験や学んできたことをもとに、私が、わが子や教会につながる子どもたちに対して意識してきた言葉の掛け方は、大きく挙げて二つあります。
一つ目は、伝えたい事柄の目的や意味を、言葉を添えて丁寧に説明することです。なぜ必要なのか?どのように大切なのか?その行動によってどうなるのか?一方的な言葉掛けにならないように気を付けて、子どもに分かるように言葉を添えています。そうすることで、子どもは自分のしていることの意味が理解できて、だんだんと自分の意思で行動できるようになると思うのです。
例えば、おつとめをするときには、「おつとめの時間ですよ。一緒に親神様、教祖にごあいさつしましょうね!」と幼い頃なら説明は短く、でも何のための時間であるのかが分かるように。終わったら「○○ちゃんの声がよく聞こえたね。親神様、教祖もきっとお喜びですよ」と、神様が喜んでくださることに気付けるように言葉を添えます。参拝などのシーンで、「ちゃんとしなさい!」などとよく言ってしまいがちですが、何をどうすると「ちゃんと」していることになるのでしょう?この場合、伝えたいことは子どもには伝わらず、単に「怒られている」印象だけが残ってしまい、参拝が苦手な時間になってしまうかもしれません。拝をする子どもの隣で、神様へのあいさつを声に出して聞かせたり、ご守護を感じたことを言葉に表して共に感謝したりなど、手本を示しながら、一緒に拝をすることを心掛けるようにしています。
日常のちょっとしたしつけも、「これは、こうだからそうしようね」と理由を易しく伝え、お手伝いでは、「教会のみんなに喜んでもらいたいから、○○のお手伝いをしてくれる?」と手伝ってもらいたい内容の目的をそれとなく添えています。少し大きくなってきた子には、周囲の人への心遣いにも気付いて学んでもらえたらいいなと願いも込めています。
二つ目は、会話の中に「親神様」「教祖」を入れることです。言葉の端々から親神様、教祖のご存在とお働きを感じてもらえるように、子どもの成長に合わせて言葉を選ぶことを心掛けています。せっかく子どもの方から話し掛けてきてくれても、私が忙しかったり、上の空という時もあって、会話自体が続かず、伝える機会を逃してしまうこともあるので、「聴く」姿勢も意識して「それからどうだったの?」と声を掛けるようにしています。会話が続くと、うまくできたこと、うれしかったこと、または悩んでいることなど、子どもの気持ちを知ることができ、そこへ神様のことも話すことができます。得意なことや好きなことに取り組んでいれば、「○○をできるのも、神様のおかげだね、お礼をしようね」と、共に感謝をし、自分には難しいと感じる課題に直面したら「神様は『あなたならできるよ』と応援してくださっているから心配ないよ」と励まし、たとえ思うような結果にならなかったとしても、努力を認めて、そして神様がご覧くださっていること、その経験が先の楽しみになることを伝えるようにしています。
そして、時には信念を持って背中を押す言葉を掛けることもあります。長女は小さい頃からとても人見知りで引っ込み思案でした。高校1年生の夏、学生生徒修養会への参加を勧めたとき、「どうしても行きたくない!」と、首を縦に振ろうとはしませんでしたが、「絶対に大丈夫。関わる人はみんな、親神様、教祖があなたのためにお引き寄せくださるのだから、心配ないよ。大丈夫!」と何度も言い聞かせて送り出しました。1週間後、帰ってきた娘の第一声は「お母さん、楽しかったよ。来年も絶対に行く!」でした。そして、瞳を輝かせながら感想を聞かせてくれました。翌年からは本人の意思で、3年間続けて参加しました。以来、妹たちに言わせると「コミュ力」の高いお姉ちゃんになったそうです。学修で与えていただいたさまざまな出会いや経験は、今でも彼女の宝になっていると感じます。
そうした言葉のやり取りから、なってくる事柄に親神様のお働きを感じたり、信仰に前向きになってくれたらと願っています。そのことがしっかりと伝えられるよう、私自身も日々、感謝や喜びを表す言葉遣いや行いを子どもに映すように努めています(なかなか難しい日もありますが)。
今回のテーマを宿題にもらい、先日、思いきって子どもたちに、「お母さんの言葉で心に残っていることって、どんなこと?」と尋ねてみました。すると、「お母さんの言葉には、逸話篇のお話がよく出てくるよね。『朝、起こされるのと』とか『人がめどか」とか」との思い掛けない返答です。伝えたい一心でしたが、「少しは思いが届いているのかなあ」と、うれしくなりました。
教えをもとに掛けてもらう言葉は、きっと子どもたちの宝になると信じています。どの子にも前を向いてこの道を歩んでほしいと願い、今日も明日もこれからも、心を込めて丁寧に言葉を掛け続けようと思います。
(飯降一代 本部婦人・大阪分教会長夫人)