文芸連載小説

作/片山恭一  画/リン

第3話
カンの透き通った目

2020年07月12日号

カンは人間の言葉を喋らない。でも、わたしとは話をする。それは人間の言葉ではない。犬の言葉でもない。なんというか、魂の言葉とでもしておこうか。

ある人がこんなことを書いている。馬と目が合って、言葉で言い表せないようなすばらしい時間をもった。翌日、同じ馬と会って、また目が合った。同じことが何度かあり、そのことを人に話した。それはいかに純粋で感動的なものだったか。つぎの日会うと、馬は目を逸らしてしまった。

何が起こったのだろう?言葉が問題だったことは間違いない。ふたりだけの秘密を誰かに話したことで馬は傷ついたのかもしれない。それとも人間のほうがうしろめたさをおぼえたのだろうか。いずれにしても、ふと漏らした言葉によって馬との一体感、心沸き立つ交流は永遠に失われてしまった。

もしカンが人間の言葉を喋っていたら、わたしたちはこれほど親密にならなかったかもしれない。太古の人と犬も言葉は交わさなかっただろう。無言のうちに通い合う気持ちや、言葉のない世界で芽生える信頼や思いやりがあるのだ。

カンは遠くを見るのが好きだった。遠くにあるものなら、ぶつかったりする心配はないと思ったのかもしれない。わたしにはこんなふうに思えた。あの子が遠くを見るのは言葉を探しているからではないだろうか。わたしはカンのために言葉が見つかることを願ったが、一方で、あまり早く見つからなければいいとも思った。

毎日のように、わたしたちは浜辺へ出かけた。海は太陽のかけらがばらまかれたように、きらきら光っている。空と溶け合っているあたりは細い一本の線になっている。やがて海の彼方でいろんなことが起こりはじめる。イルカの群れが波を切って泳いでいく。秘められた海で巨大なクジラが潮を吐く。その上を、にぎやかな色の鳥たちが飛びまわる。

あの子の透き通った目は、さらに遠くのものを見ることができる。視線の届く範囲を超えて、ときには未来まで見えてしまうほどだった。

夏の暑い日だった。真夜中に目を覚ましたカンは、食堂のテーブルや玄関先に立てかけてあるサーフボードなどにぶつかりながら表に飛び出した。防風林のなかを抜けて浜辺のほうへ駆けていった。何事だろう?わたしは慌ててあとを追いかけた。

身体中の毛が逆立った。もう少しで息が止まるところだった。月の光に照らされて暗い海の彼方が盛り上がっている。まるで何ものかが下から海を持ち上げているみたいだった。

本当に海が持ち上がったのは数日後のことだ。地面が激しく揺れ、家のなかではテレビがひっくり返った。本棚から本が飛び出し、食器棚のガラスがたくさん割れた。それから山のような海がやって来た。海は砂浜を呑み込み、ボートハウスをねぐらにしていた憐れな犬が犠牲になった。

家の前の道路にできたひび割れを見て、わたしたちは目を見合わせた。あの夜、暗い海の彼方で見たことが起こったのだ。それはカンの心がつくり出した情景ではなかった。数日か数カ月か、もっと先の未来で実際に起こることなのだ。

相関図