文芸連載小説

作/片山恭一  画/リン

第40話
わたしたちは一人で二人

2021年11月24日号

その日、わたしたちはハハの運転する車で海にでかけた。いつも散歩する砂浜ではなく、波乗りをする連中が好む海岸、トトがいうところの「ビーチ」だ。

「海の季節は地上よりも三カ月くらい遅れているんだよ」。海辺の道を走りながらハハは言った。「地上が秋なら海は夏。ということは、いまも海では夏がつづいているってことだね」

十月だというのに、たくさんの若者が波乗りを楽しんでいた。黒いビニールのスーツを着ている者もいるし、パンツだけの人もいる。ハハとカンは海には入らずに、砂浜からサーファーたちを見ていた。波乗りに興味のないわたしは海と空を見つめた。それこそ穴があくほど見つめた。ひょっとして穴の向こうにトトが見えるかもしれない。

「いつか二人でまたサーフィンをはじめたいな」。遠いハハの声が言った。「トトが感じていた海を、カンと一緒に感じていたいから」

昼は砂浜に広げたシートの上でパンを食べた。二人で焼いたパンだ。その匂いのせいかもしれない。少しうとうとして夢を見た。夢のなかにトトとハハが出てきた。わたしが知っているどんな二人よりも若い。若いハハが赤ん坊を抱いている。それを横から、これまた若いトトが覗き込んでいる。彼らは赤ん坊にうっとりと見とれている。

わたしは自分が見つめられているようで、ちょっとくすぐったい気持ちになった。ありえないほど若い二人のまなざしが、生まれて間もない赤ん坊にやさしく注がれて、その子の未来がひらけていくことを願っている。やがて若い母親は赤ん坊をやさしく揺すりながらハミングをはじめた。

小さく澄んだ声で奏でられるメロディーを聴いているうちに、なぜか懐かしい気分になった。心地のいいものがパン生地のように膨らんで、何かがわたしのなかで甦ってくる。長く忘れていたことが、少しずつ明らかになってくる。ああ、そうだ。この声を聞いてわたしは大きくなったのだ。

目が覚めると、いつものカンとハハがいた。自分がどこにいるのかわからなかった。犬だという自覚もなかった。ハハがひとりごとみたいに言った。

「トトが生きていたころは、わたしたちは二人で一人だと思っていた。トトがいなくなって、いまは一人でも二人と感じる。トトがわたしを生きているってことかな」

サユリさんが話していた倍音のことだ、とわたしは思った。ハハの命の音色のなかには、トトの命の音色も含まれている。カンの命にはどんな音色が含まれているのだろう。これからどんな音色やメロディーを奏でるのだろう。長生きをする必要がありそうだ。犬の寿命は人間よりもずいぶん短く設定されているみたいだから。

(第1部 終)

相関図