文芸連載小説

作/片山恭一  画/リン

第15話
吠えて、吠えて、さらに吠えた

2021年01月17日号

いつもは静かな海が荒れていた。一言主の神さまが祀られている小島のあたりも白く波立っている。雨は降っていないが、空は灰色の雲に厚く覆われていた。湾内に係留された漁船やボートが波に揺られて軋むような音をたてている。カモメがうるさく騒ぎ立てる。

港の駐車場に車やトラックが何台か停まっている。小型乗用車に一人の若い男がいた。窓を半分くらいあけてぼんやり海を見ている。カンは立ち止まって、しばらく男のほうを見ていた。

桟橋には人影がない。たいてい何人か見かける釣り人も、今日は悪天候のせいか一人もいなかった。カンは桟橋の先端まで歩いていって腰を下ろした。わたしは近くに寝そべって、ちょっと強めの潮風に吹かれることにした。

トトが話していたことを思い出した。年に一度ほど、学会のために都会へ出かける。その折、昔の仲間に誘われて波乗りをしたらしい。

「海の水が臭いんだ」。トトは目を丸くして言った。

「体質が変わっちゃったのかなあ。前はそんなこと気にならなかったのにね。病気になりそうな気がして、とてもサーフィンなんて気分じゃなかった」

海にもいろいろあるらしい。幸い、わたしはここの海しか知らない。いまは青と白のまだら模様に波立っている。

夕暮れにはまだ時間があるのに、夜がすぐそこまで来ている気がした。風は少しずつ強くなっている。いつのまにかカモメの鳴き声もやんでいる。そろそろ帰ったほうがいいかもしれない。

カンは坐ったまま身を乗り出して下を見ている。桟橋に打ち寄せる波が飛沫を上げている。頭の重さを考えないと海に落ちるぞ。

あっ、と思ったときには、あの子の身体は水のなかにあった。海面に頭だけが浮かんでいる。立ち泳ぎのようなかっこうで口をパクパクしている。波に洗われた髪が顔を覆っているので表情はわからない。

こういう場合でも、カンは声ひとつ上げない。わたしも普段は静かなほうだが、犬には吠えるという習性がある。必要なときにはその習性を使う。

吠えて、吠えて、さらに吠えた。威嚇するような猛々しい声ではない。緊急事態を告げる切羽詰まった声だ。多少とも分別のある者なら何か起こったと思うはずだ。

吠えながら走った。走りながら吠えた。人を呼ばなければならない。嗅覚、味覚、聴覚などの知覚面ですぐれているわたしたちだが、残念ながら海に落ちた子どもを救助する力はない。

港の駐車場に停めてあった小型乗用車のドアが開いて、若い男が出てくるのが見えた。何かを察したらしい。こっちに向かって駆けてくる。脱いだ上着を途中で足元に投げ捨てた。桟橋の上ですれ違った。わたしには目もくれない。どうするつもりだ?

端まで来た。その先は何もない。男はためらうことなく海に飛び込んだ。

相関図