文芸連載小説
ずぶ濡れの若い男が車を運転している。長めの髪からは水がしたたり落ちている。助手席のカンも濡れている。乾いているのは後部座席にいるわたしだけだ。
外はすっかり暗くなっていた。対向車はヘッドライトをつけている。男はうっとうしそうに前髪を指で掻き上げた。彼もやはり言葉を節約するタイプらしい。しかしカンのように、まったく喋らないというわけではない。
「道はこっちでいいんだな」。不機嫌そうにたずねた。
カンは前を向いたまま黙ってうなずいた。
「ありがとうぐらい言えよ。助けてやったんだから」
もちろん男は事情を知らない。だから、わたしが代わって応えた。男はちらりと後ろを振り返った。
「いまのは、ありがとうか?」
頭は悪くないようだ。
「まいったなあ」。それから助手席のカンを見て、「寒くないか」とたずねた。
結局、カンは指の動きと頭の上下運動だけで車を自分の家まで誘導した。本当に必要なことは言葉なしでも伝えることができる。わたしは常々、人間の言葉は悪事を隠すためのものではないかと疑っている。
ドアをあけたハハは、ずぶ濡れのカンを見て驚いた。
「いったいどうしたの?」
青年は簡単に事情を話した。すでに帰宅していたトトが奥から出てきた。立ち去ろうとする男を二人は引き留めた。行くところがあるので、と若い男は弁解するように言った。
「とにかく、なかに入って。服だって乾かさなきゃいけないし」。ハハはバスタオルでカンの頭をごしごし拭きながら言った。「お風呂に入って、せめて夕ご飯だけでも食べていってちょうだい」
「そうだよ、そうしなさい」。トトが父親みたいな口調で言った。
「まいったなあ」。彼は再び言った。「こんなことになるなんて」
「なんとお礼を言っていいか。本当にありがとう」
若い男はハハの言葉を聞くと、耳に入った水を振り払うように首を振った。
「子どもが海に落ちたのを見たら、助けないわけにはいかないですから」
「それにしても、いったいどうして海になんか落ちちゃったのかしら」
重力の問題だ。もちろんハハの「どうして」が、そういう意味でないことはわかっている。
男が海に飛び込んだあとも、わたしは桟橋の上で吠えつづけた。だが助けはやって来ない。カンは男の背中にしがみついている。男は桟橋の縁をつかんで、ゆっくり岸のほうへ移動していった。何度も波をかぶったけれど手は離さなかった。
「サーフィン、やるんですか」。玄関に置かれたサーフボードに目を留めて彼は言った。