文芸連載小説
雨降りの日がつづいた。稲が育つにはいいかもしれないが、人や犬は退屈だ。そこで久しぶりの青空が広がった日曜日、わたしたちは海へ行ってみることにした。ツツは家でまだ学校の宿題をしていた。漢字の書き取りで、終わるまで遊びにいってはいけない、とサユリさんに言われているらしい。
「きびしいんだ、うちのハハは」
そのサユリさんは町に買い物に出かけている。海にはフウちゃんが連れていってくれることになっていた。彼は娘の宿題が終わるまで太鼓の修理をしていた。大小の太鼓が何種類もあり、ほかにも鈴のようなもの、振ってシャカシャカ音をたてるもの、金属のベルや木の板などが部屋中に散乱している。
「これがトーキングドラム、太鼓言葉に使う楽器だよ」
フウちゃんは大男だ。背はトトよりも頭一つ高い。カンの家族とは先日、サユリさんのピアノの演奏会で顔見知りになっている。
「日本の言葉は音の高さによって別の意味になるだろう?ハナとハナとか、ハシとハシとか、ハンシンとハンシンとか、こういう言葉は太鼓言葉向きだね」
いったい何を言っているのだ、この男は?
「おとうさん、静かに。勉強ができないよ」
「すいません」。大男は小さな声で言った。「このごろツツはサユリさんに似てきて、フウちゃんは困っているんだ」
部屋にはサユリさんが練習用に借りているピアノがあった。カンは興味をもったらしく、椅子に坐って蓋を撫でたり側面を軽く叩いたりしている。わたしにはあの子の手が弾きたがっているのがわかった。のどの渇いた犬が水を求めるように、指が音を求めている。
蓋をあけて、指先をそっと鍵盤の上にのせた。なんの音もしない。勇気が足りなかったようだな。もう少しすばやく指を落とすと、今度は柔らかな音がした。あとは指が勝手に動いて、恥ずかしがり屋のメロディーが臆病なリスのように出てきた。サユリさんが演奏会で弾いた曲だ。花が蕾を開くように、音楽が部屋中に広がっていく。
いつのまにかツツとフウちゃんがピアノのそばに立っていた。
「ブリッジ・オバー・トロトロ・ワター」とフウちゃんが言った。
曲の名前だろうか?
「きみってピアノが弾けるんだ」。ツツが呆気にとられた声で言った。
それは一つの発見だった。これまでカンがピアノを弾くのを見たことはない。ピアノという楽器に触ったことさえなかったかもしれない。おそらくおぼえてしまったのだろう。演奏会で聴いた曲をおぼえて、そのとおりに弾いてみせたのだ。
「ツツが弾いているのかと思った」
部屋の入口にサユリさんが立っていた。買い物から帰ってきたところらしい。
「ひょっとして彼、天才かも」とツツが言った。