文芸連載小説
サユリさんは子どものころからピアニストになるのが夢だった。小学校に上がる前から音楽教室に通い、毎日何時間も練習した。音楽専門の大学に入り、留学までした。ウィーンという街に住む有名な先生にピアノを習うためだ。
あるとき課題が出た。とても難しい曲だったが、一生懸命に練習して、先生の前で一つもミスをせずに演奏することができた。すると先生が言った。
「楽譜に書いてあるとおりに演奏したことはわかります。でも、あなたが弾いたのはバッハではありません」
そのときからサユリさんはピアノが弾けなくなった。楽器に向かうと手が震えた。硬くひんやりとした鍵盤に指を触れただけで気分が悪くなった。
ここにいてもしょうがない。かといって日本へ戻る気にもなれない。街で仲良くなった音楽仲間がアメリカの出身で、実家はカリフォルニアでワインをつくっているという。そこで働かせてもらうことになった。
サユリさんが着いたのはブドウの収穫期で、農園が一年中でいちばん忙しくなるころだった。都会から大勢の学生がアルバイトとしてやって来ていた。彼らは夏のあいだ住み込みでブドウを収穫しつづける。サユリさんも朝から晩までブドウの摘み採りを手伝った。
彼女はその仕事が気に入った。ブドウを摘んでいるあいだはピアノのことも音楽のことも忘れた。もともと手先が器用なので、すぐに摘み採りが上手になった。普通の学生の二倍くらいの速さで籠を一杯にすることができた。
農園の広い食堂の隅にピアノが置いてあった。何年も弾かれずに埃をかぶっている古いピアノだった。これなら弾けるかもしれない、とサユリさんは思った。ある夜、誰もいないときを見計らって食堂へ行き、ピアノの前に坐ってみた。早く楽器に触れたいような、触れるのが怖いような複雑な気持ちだった。
蓋をあけると、指の動くままに弾きはじめた。ウィーンで先生から「バッハではない」と言われた曲だった。ゆっくりと最初のアリアを弾いてみた。音楽の神さまがそっと扉を開けてくれる気がした。
「もともと難しい曲なんだけど、難しさにばかり気をとられて、曲の本当の良さに気づいていなかったのね。ト長調のアリアを弾きながら、こんなに美しい曲だったんだって思った」
弾いているうちに楽しくなった。長いあいだ忘れていたことだった。中学生のころ、ピアノを弾くのが楽しくてしょうがなかった。モーツァルト、チェルニー、ショパン……。
「ウィーンで先生が言いたかったのは、このことだったんだと思い当たった。弾いている本人が音楽を感じていなければ、何を弾いても音楽にはならない」
つぎからつぎに弾いて、とうとう三十ほどの変奏曲をすべて弾いてしまった。
「ずっとピアノから遠ざかっていたのに、楽譜は頭のなかに残っていたの」