文芸連載小説
潮だまりには小さな海の生き物たちがいた。魚のほかにエビやカニ、ヤドカリ、イソギンチャク、ウニ、ヒトデなど。カンは一つひとつの生き物に見入り、丹念に観察している。
昨夜、彼は真っ暗なヤシの林で願い事をした。一生に一度の願いをかけた。言葉を喋らないカンが、どんな言葉を使って願い事を伝えたのかわからない。おかげで今日は昼近くまで寝ていた。目を覚ますと夏休みがはじまっていた。海も山も探検されるのを待っている。
昼食を済ませてから、わたしたちは海に出かけた。ツツも誘った。彼女はいま砂に埋まっている。
「大変だ!」
カンが振り向いた。もう一度、吠えた。ようやく気がついたらしい。
埋めてくれと言ったのはツツだ。「砂のなかでしばしの眠りにつくの」などと言っていた彼女は、いまや完全に眠り呆けている。砂に潜った二枚貝のように、鼻と口だけが辛うじて水面から出ている。カンは慌ててツツを掘り出した。わたしが吠えなければ永遠の眠りについていたところだ。
「危なかったなあ」。彼女は他人事みたいに言った。「もう少し遅かったら、溺れ死ぬところだった。そうしたら学校中で盛大なお葬式が催されたと思う?」
暑くなってきたので泳ぐことにした。ツツはプールの授業で習ったとおり準備体操をした。それから海水で顔を洗い、胸のあたりに水をかけた。これらの手順を一つでも怠ると水難事故につながると考えているらしい。わたしは砂に埋まって呑気に寝ているほうがよほど危険だと思うのだが、彼女にはまた別の意見があるのだろう。
ツツは水中眼鏡を持っていないので、カンが自分のものを貸してやった。二人は交互に水に潜り、海の底からいろんなものを持ち帰った。犬は原則として水には潜らない。かわりに浅瀬を走りまわり、ツツのそばで猛然と身体を振って水をはねかけた。
海は静かで、遠くまで浅瀬がつづいていた。水遊びをしたあとは身体が重くて力が入らない。しばらく砂浜で休むことにした。こんな安全そうな海でも、過去には何人か溺れて死んだ子どもがいるという。海岸へ打ち寄せた波が、沖へ戻ろうとするときに、泳いでいる者を一緒に連れていってしまうことがあるらしい。だから気をつけるのよ、とハハはカンに言った。
いつのまにか二人は再び水遊びに興じている。カンも楽しそうだ。無理もない。ツツの一家に降りかかろうとしていた災いを取り除いたのだから。完全に自分の力ではないけれど、半分くらいはあの子の力と言ってもいいだろう。
砂浜にいるのはわたしたちだけだった。地球上から人影がなくなったような気がした。太陽は輝き、海は穏やかだった。夏休みはいまはじまったばかりだ。明るい午後は夏そのものだった。