文芸連載小説
その夜のことを、カンは何度も思い出すことになるだろう。夕暮れに庭でバーベキューをしたあと、コンロなどを片付けながらトトが言った。
「ちょっと海に行ってみないか」
「だって真っ暗じゃない」
たしかに月のない夜だった。
「星が出ているよ」
三人は家のなかで水着に着替えた。トトとハハはそれぞれのサーフボードを持っていくことにした。海は静かで涼しくて暗かった。こんな夜に泳いでいる人は誰もいない。
「ピノ、ここにおいで」
トトは自分のサーフボードにわたしを乗せようとした。普段なら断るところだが、その夜にかぎってトトの言葉には不思議な力があった。魔力ともやさしさともつかないものに手繰り寄せられて、わたしは板の先に乗った。ハハはカンと二人でもう一つのボードにまたがった。
両手で水を掻いてボードを沖へ進めた。背の高いトトは手も大きかった。その手で力強くボードを進めていく。水を切って進むボードの先を見ていると、緑色がかった光の帯が現れては消えた。前に進むたびに緑色の光が飛び散る。
「夜光虫だよ」
後ろでトトの声がした。わたしが振り向くと、彼は手のひらで海面を叩いて水しぶきを立てた。さざめく光があたりに降り注いだ。手からも光の水が滴っている。
後ろからやって来るハハたちのボードとの差が開いたので、その場にとどまって待つことにした。海の水は温かく、表面はわたしの毛並みのように艶やかで黒かった。願い事をした島が見えた。いつもどおり陸と切り離されて海に浮かんでいる。一言主の神さまも、今夜はゆっくり休んでいることだろう。
「いま足に何か触った」。後ろのボードでハハが調子はずれの声を上げた。
「イルカかな」
「まさか」
「大ダコかも」
「おどかさないでよ」
二つのボードは再び並んで進みはじめた。沖を航行する船の明かりが見えた。遠くの海岸線には街の灯が見えた。たくさんの小さな光が揺れるように瞬いている。
トトが水を掻く音だけが聞こえていた。その音を聞いていると、なぜか寂しい気持ちになった。これまでになく、ひとりぼっちと感じた。人も犬も、この暗い宇宙のなかでひとりぼっちで生きている。
「命というのは波みたいなものかもしれないな。波は小さくて目には見えない。でも心を澄ますと、身体の奥にかすかなゆらぎを感じる。われわれみんな波に運ばれる命なんだ」
どうしてトトがそんなことを言ったのかわからない。とびきり名言というわけでもなさそうだ。だが、わたしはその言葉を生涯忘れないだろう。