文芸連載小説
何日かして、ツツが店にやって来た。トトのお葬式のときにも両親と一緒に顔を出したけれど、カンやハハと言葉を交わすことはできなかった。ドアを開けた相手を、彼女はちょっと怯えたような目で見た。
「怖がらなくていいのよ」。ハハはやさしく言った。「さあ、どうぞ。入ってちょうだい。いまパンが焼けたところ。持って帰ってみんなで食べてね」
「あの、おばさん……」
「悲しいときは美味しいものを食べるのがいちばん」
でも本人はほとんど食べなかった。自分が焼いたパンも、それ以外のものも。わたしはいつものように食べていたけれど、味はわからなかった。うまいともまずいとも思わず、ただ空腹を満たすために食べていた。
カンはどこにもいない場所にいるみたいだった。そのためツツは声をかけることができなかった。かけても届かないと思ったのかもしれない。わたしは二人を笑わせたかったが、犬にそうした芸当はできない。
「心が弱っているときは、身体が喜ぶことをするのがいちばん」。ハハは自分に言い聞かせるように言葉をつないだ。「悲しみを癒やすことはできないけれど、お腹を空かしている人のために美味しいパンを焼いてあげることはできる。そうやって悲しみも癒えていくのかもしれないね」
何日かして、今度はサユリさんがやって来た。
「お酒を飲んでいたらしいの」。抑えた声でハハは言った。「ビールを飲んで泳いで溺れたなら自業自得じゃない。理不尽よね。そんな人を助けるために、うちの人が命を落とすなんて」
サユリさんは何も言わずに頷いた。それからハハの淹れたコーヒーをそっと口に運んだ。少しでも音をたてたら、世界が爆発してしまうかのようだった。二人はとても近いけれど、とても遠くにいると感じられた。
「結婚記念日だったの。あと一週間ほどしたら……レストランまで予約してくれていたのに」
サユリさんはテーブルの上でハハの手を握った。涙を流しているのは彼女のほうだった。わたしは一瞬、二人の女性の見分けがつかなくなった。
「先に進んだほうがいいのはわかっている。でも進めないときがあるのね。まるで嵐のなかに立っているみたいに、どうしても前を向けないときが」
「また来ていい?」。サユリさんがたずねた。
「ええ、いつでも」。そう言って、ハハは寂しそうに微笑んだ。「ツツもフウちゃんも一緒にね。カンも喜ぶと思うわ」
ハハはこれ以上ないというくらい悲しそうな目をしていた。悲しい目をした彼女は美しかった。悲しみが人を美しくするなんて、おかしなことだとわたしは思った。