文芸連載小説
ハハはトトのものを片付けることができない。なにもかもが、そのままだった。着ていた服も使っていた食器も、トトが生きていたときのままそこにある。
郵便物もまた、以前と同じように届きつづけた。ほとんどが封を切られずに、トトの写真を飾ったテーブルの上に置かれていた。積み重なっていく郵便物を見ていると、それが悪意をもった何者かの仕業のようにも思えてくる。
海は毎日、不吉なほど青かった。穏やかな海に、島は何事もなかったかのように浮かんでいた。わたしはこんなことを思った。一言主の神さまというのは、本当は恐ろしい神さまではないだろうか。機嫌が悪いときには、願い事を発した者の心を粉々にしてしまう、そんな暴虐な神さまではないだろうか。
カンはじっと海の向こうに目を凝らしていた。見えるのかもしれない、とわたしは思った。ボードに腹這いになり、大きな手で力強く水を掻きながら海の彼方をめざすトトの姿が。見えないはずがあるだろうか? ときには未来さえも見えてしまうあの子には。
あるとき砂浜にツツが現れて、首から吊るした太鼓をいきなり叩きはじめた。くり抜いた木の片方に皮が張ってある奇妙な太鼓だった。それを怒ったように叩きつづけた。わたしは太鼓の皮が破れる前に、彼女の指が壊れるのではないかと思った。
「きみがいま最低な気分だってことはわかってる」。息を切らして言った。「いいビートを叩けば、少しはましな気分になるかと思って」
残念ながら、どんなに親身な言葉も、いいビートも、いまはあの子のなかを素通りしていく。ツツは黙ってその場を立ち去った。
人間が持ち合わせている言葉では間に合わないと感じられるときがある。ひょっとして、あの子にはわかっていたのかもしれない。そんな日が自分に訪れることが。だから最初から言葉を喋らなかったのではないだろうか? 馬鹿げた考えだとは思う。でもカンを見ていると、わたしはそんなことを想ってしまう。
誰もが幸せになれる方法を探していた。どうやれば人は幸せになれるのか?
笑うと幸せになれると言う人がいる。これほど容易く、また難しいことはないだろう。ツツなどは町中にポスターでも貼りたい気分だったかもしれない。
〈幸せになれる方法をご存じの方は下記までご連絡ください〉
心根のいい少女よ、だがそれは見つけるものではなく、向こうから見つけてもらうものではないだろうか。自分の力ではどうしようもないところがあるのだよ。