文芸連載小説
その夜、カンはベッドのなかで泣いていた。トトが亡くなってからはじめてのことだった。嗚咽を押し殺して、あの子は長いあいだ泣きつづけた。
彼はトトのために泣いていた。ハハのために泣いていた。そして自分のために泣いていた。わたしはあの子の頬を伝う涙を舐めてやった。トトが愛した海の味がした。
いつかハハは電話で誰かに話していた。
「せめてあの人の死を看取りたかった。わたしの腕のなかで息を引き取ってくれたらって……。亡くなっていく人にとっては、どっちでもいいのかもしれないけど。勝手なものね、生きている自分の都合ばかり考えている」
一つひとつの命もあるだろう。また別の命もある。いつかトトは言っていた。
「命というのは波みたいなものかもしれないな。波は小さくて目には見えない。でも心を澄ますと、身体の奥にかすかなゆらぎを感じる。われわれみんな波に運ばれる命なんだ」
トトは自分の命から別の命へ移動したのかもしれない。トトによれば命とは波みたいなものだから。ハハの悲しみのなかにトトがいる。彼女の悲しそうな顔に、トトの面影が浮かんでいる。だからハハの顔を見れば、わたしたちはいつだってトトに会えるというわけだ。トトは一つの命を脱ぎ捨てて、もう一つの命を生きはじめているのかもしれない。
ツツたちが町を離れる日が近づいたころ、ハハはサユリさんに電話をかけた。
「ワインを飲みにこない? たくさんあって、とても一人じゃ飲みきれない」
「よろこんで」とサユリさんは言った。
ワインを飲みながら、ハハは何を食べても味がしないと言った。
「きっとあの人がいないせいね」
なるほど。ハハにとって、トトのいない世界はおいしくないのだ。犬のわたしにはわからない理屈だが、そういうこともあるのだろう。
サユリさんは音楽の話をした。ピアノで一つの音を鳴らすと、それ以外の音も同時に鳴っている。倍音というらしい。二倍、三倍、四倍、五倍……と無数の倍音が含まれていて、あまり高い倍音は人間の耳には聴こえない。倍音の含まれ方の違いが音色の違いになる。
トトとサユリさんは同じことを言っているのではないだろうか。どの命も波や倍音として重なっている。いまやトトの命の音は普通の耳には聴こえないものになったけれど、いつもハハやカンの命とともに鳴っていて、彼らの命の音色をつくり出している。
季節が進んでリンゴや蜜柑が熟すころに、ハハの世界も再びおいしくなればいいなと思った。