文芸連載小説
いまから百五十年ほど前、このあたり一帯で疫病が流行した。大人も子どもも老人も、たくさんの人が亡くなった。そのころはトトのような医者はいなかったので、疫病が流行りだすと人々はどうすることもできなかった。
困った村の人たちは頭を悩ませたあげく、遠方から職人を呼び寄せて石の地蔵を彫らせることにした。現在も田んぼの畔や四つ辻の片隅など、あちこちに残っていて、その数は二百以上になるらしい。おかげで人が疫病にかかることはなくなったが、かわりに農家で飼われている動物たちが病気になりはじめた。
十年ほど前にも、多くの牛や豚が病気になって村中が大騒ぎになった。感染した動物たちは殺され、白い粉をかけて穴に埋められた。その数は何十万頭にものぼったという。
「たしかに、この人の言うことには一理ある」。食堂のテーブルで新聞を読んでいたトトが感心した声で言った。
「狭い畜舎で牛や豚を飼うのは、わざわざ感染しやすい環境をつくっているようなものだというんだがね。コレラでもペストでも、伝染病というのは人が密集した都会で大きな被害が出るものだ。感染予防といっても、消毒やワクチン接種だけでは根本的な解決にはならない。飼育環境を良くすることで病気を防ぐという発想は、傾聴に値すると思うね」
それからトトは学生時代に読んで感銘を受けたという『沈黙の春』の話をはじめた。五十年も六十年も前の本らしい。当時、アメリカでは害虫を退治するための農薬として大量の化学薬品が使われるようになっていた。おかげで昆虫はいなくなったけれど、虫を食べてくれる鳥も姿を消した。あとから虫が再発生するようになっても、鳥たちは戻ってこなかった。
「おいしいらしいよ」。夕ご飯の支度をしていたハハが、肩口から新聞を覗き込んで言った。「省吾さんのところの豚。東京や京都のレストランにも卸しているんだって」
省吾さんは、人が少なくなって取り残された農地の面倒を一人で見ている。広い土地の一部を利用して豚を飼っているという。
「そりゃあストレスの少ない環境で育てられた豚だから、うまいだろう」。トトは新聞の記事を目で追いながら言った。「畜舎で飼われた豚は、体重が一五〇キロくらいになるとストレスで肉がまずくなるんだってさ。それで生後七カ月くらいで出荷する。人間でいうと高校生くらいらしい。そういう豚を、普段ぼくたちは食べているんだね。この人のところでは一歳半くらいまで育ててから出荷するそうだ」
トトはしばらく何か考えているようだった。
「行ってみるかなあ」
「お肉を買いに?」
あきれたようにハハを見た。
「話を聞いてくるんだよ。いろいろ教わることがありそうだ」