文芸連載小説
「犬を飼っているんだね」。店に入ってきたツツが、わたしに気づいて言った。「名前はなんていうの」
わたしに訊かれても「ワン」としか答えられない。カンは店の隅のテーブルからちょっと顔を上げただけで、また暗記カードをめくりはじめた。ハハが代わって答えた。
「ピノか」。ツツはうっとりした顔でわたしを見た。
「いい名前だね。こんにちは、ピノ」
よく喋る娘だった。カンと足して二で割ればちょうどいいのに、とわたしは思った。どうも人間は犬ほどバランスよくできていないようだ。
あとから店に入ってきたサユリさんとハハは初対面だった。二人は簡単に自己紹介をした。
「主人もわたしもここのパンの大ファンなんです」
「わたしもよ」。横からツツが言った。
ハハはうれしそうにうなずいた。
「今度、ピアノのリサイタルを開くことになったんです」。サユリさんは小さな紙切れを差し出した。「町の施設を借りた簡単なものですけど。よかったら、みなさんで聴きにきてもらえないかなと思って」
ハハは喜んで行きますと答え、お礼に焼き立てのパンをたくさん袋に入れた。ツツはわたしに向かって「バイバイ」と手を振った。カンにもさようならを言ったけれど、あの子はカードに目を落としたまま、うなずいただけだった。
この町に引っ越してきてから、ハハは波乗りをやめてしまった。きっぱりやめたわけではなかったが、少しずつ回数が減り、いつのまにかボードは乾いたままの状態になった。
せっかくきれいな海があり、サーファーもほとんどいないのにもったいないことだ、とトトは何度か波乗りに誘ったけれど、彼女にはおいしいパンを焼くことのほうが大事なようだった。それにカンのこともある。もしも自分の身に何かあれば、あの子はどうなる?もちろん何があろうと、わたしが付いているから大丈夫だ。
ハハが本格的にパン作りをはじめたのはトトと結婚してからだった。新婚旅行で訪れた外国の小さな町のホテルで、朝食に出されたパンを食べたことがきっかけだったらしい。こんなおいしいパンを自分も作りたいと思った。食べた人を元気づけるパン。明るい気持ちにさせるパン。
「おいしいパンを食べた人は、とても幸せな気分になって、こんな幸せを自分だけで味わうのはもったいないって思うんじゃないかな。そして誰かにわけてあげたくなる。幸せは半分わけしても、また半分わけしても、いつまでもなくならない」
なるほど。大切なことは、そうやって伝わっていくのかもしれない。ハハの焼くパンのようにふっくらといい匂いをさせるものとして。もらった人が、思わず半分わけして誰かにあげたくなるようなものとして。わたしは世界中の人たちがおいしいパンを食べて幸せになればいいなと思った。