文芸連載小説

作/片山恭一  画/リン

第16話
言葉を節約するタイプ

2021年02月07日号

ずぶ濡れの若い男が車を運転している。長めの髪からは水がしたたり落ちている。助手席のカンも濡れている。乾いているのは後部座席にいるわたしだけだ。

外はすっかり暗くなっていた。対向車はヘッドライトをつけている。男はうっとうしそうに前髪を指で掻き上げた。彼もやはり言葉を節約するタイプらしい。しかしカンのように、まったく喋らないというわけではない。

「道はこっちでいいんだな」。不機嫌そうにたずねた。

カンは前を向いたまま黙ってうなずいた。

「ありがとうぐらい言えよ。助けてやったんだから」

もちろん男は事情を知らない。だから、わたしが代わって応えた。男はちらりと後ろを振り返った。

「いまのは、ありがとうか?」

頭は悪くないようだ。

「まいったなあ」。それから助手席のカンを見て、「寒くないか」とたずねた。

結局、カンは指の動きと頭の上下運動だけで車を自分の家まで誘導した。本当に必要なことは言葉なしでも伝えることができる。わたしは常々、人間の言葉は悪事を隠すためのものではないかと疑っている。

ドアをあけたハハは、ずぶ濡れのカンを見て驚いた。

「いったいどうしたの?」

青年は簡単に事情を話した。すでに帰宅していたトトが奥から出てきた。立ち去ろうとする男を二人は引き留めた。行くところがあるので、と若い男は弁解するように言った。

「とにかく、なかに入って。服だって乾かさなきゃいけないし」。ハハはバスタオルでカンの頭をごしごし拭きながら言った。「お風呂に入って、せめて夕ご飯だけでも食べていってちょうだい」

「そうだよ、そうしなさい」。トトが父親みたいな口調で言った。

「まいったなあ」。彼は再び言った。「こんなことになるなんて」

「なんとお礼を言っていいか。本当にありがとう」

若い男はハハの言葉を聞くと、耳に入った水を振り払うように首を振った。

「子どもが海に落ちたのを見たら、助けないわけにはいかないですから」
「それにしても、いったいどうして海になんか落ちちゃったのかしら」

重力の問題だ。もちろんハハの「どうして」が、そういう意味でないことはわかっている。

男が海に飛び込んだあとも、わたしは桟橋の上で吠えつづけた。だが助けはやって来ない。カンは男の背中にしがみついている。男は桟橋の縁をつかんで、ゆっくり岸のほうへ移動していった。何度も波をかぶったけれど手は離さなかった。

「サーフィン、やるんですか」。玄関に置かれたサーフボードに目を留めて彼は言った。

相関図