文芸連載小説
土曜日の朝、パンを買いにきた客の一人がハハに告げた。ホタルを見るのに絶好の場所がある。今夜あたりが見ごろかもしれない。
ハハの運転する車にカンとツツとわたしが乗った。トトは宿直で診療所に泊まる日だった。フウちゃんとサユリさんは深夜までホテルでの仕事がある。ツツがたずねた。
「ホタルはどうして光るの?」
「どうしてだったかなあ」。ハハは思案顔で言った。「いつか聞いたんだけど忘れちゃった」
「お尻に超小型のLEDを搭載してるとか」
「たぶん違うと思う」
「なんのために光るの?」
「コミュニケーションのためらしいよ」
あたりは暗くなりかけていた。そこは小学校の体験学習で田植えをした棚田だった。梅雨明け間近の田んぼで、稲は順調に育っている。風が吹くと細い葉は波のように揺れた。
「ホタルを見るの、はじめて」とツツが言った。
「わたしも久しぶり」
しかしホタルはなかなか現れなかった。田んぼの奥に植えられた木が暗い影になってそそり立っている。まわりの暗がりよりもいっそう暗く、いまにも何か飛び出してきそうだった。
しばらくすると、暗闇のなかに一つ、ほのかな光が浮かび上がった。その数は二つ、三つと増えていく。
「ホタル?」。ツツが自信なさそうに言った。
黄緑色の小さな光は規則正しく瞬きながら、かすかに吹く風に乗って漂っている。近くに飛んできたのを見ると、たしかに尻のところが光っている。なんとも奇妙な生き物がいたものだ。尻を光らせることで会話をするとは。
飛び交うホタルの数はどんどん増えて、いつのまにか棚田一面が点滅する小さな光で覆われている。稲の葉先に一斉に黄色い花が咲いたみたいだった。
「こんなにたくさんのホタル、はじめて見た」とハハが言った。
ツツは何も言わなかった。あまりの数に圧倒されて言葉を失ったらしい。ただホタルたちの光の乱舞に見とれ、夢見心地になっている。
小さな生き物となると、カンはなんでも捕まえないと気が済まない。きっと自分の手で触れて確かめたいのだろう。すぐに首尾よく一匹のホタルを捕まえた。丸めた手をツツの鼻先に差し出した。指の隙間から小さな光が漏れている。その光をそっと彼女の手に移した。
ツツは受け取ったものを両手で包み、祈るようにして胸の前にもっていった。
「熱くないんだね」。彼女は不思議そうに言った。
それから顔を近づけて、指のあいだからなかを覗き込んだ。目を離して指を広げると、ホタルはふわりと浮かび上がり仲間たちのほうへ飛んでいった。