文芸連載小説
その夜、ホタルは夢のなかにまで飛んできて黄緑色の光を点滅させた。どうやらわたしの夢を美しく照らしてくれるつもりらしい。宙を舞う光に誘われるようにしてフウちゃんが現れた。
「そろそろママを迎えにいく時間だよ」
ツツは黙ってうなずいた。二人はゆっくり棚田の道を下りはじめた。大きな影と小さな影。このまま行かせてはならない、というおかしな気持ちになった。二人が遠ざかっていくにつれて、まわりを飛び交うホタルの数は少なくなっていく。最後の光が地面に向かって細い光の線を引きながら消えてしまうと、大小二つの影も闇に溶け込むようにして見えなくなった。
夢から飛び出したホタルが一匹、耳にとまっている。わたしの夢のなかは、ホタルにとっては狭すぎるらしい。くすぐったくて目が覚めた。まるで世界が裏返しにされたみたいだった。しばらくは夢のつづきにいる気がした。カンの部屋だった。鼻先にベッドの脚がある。あの子はベッドを抜け出して窓の外を見ている。
どきどきという心臓の音が聞こえていた。カンの心臓の音かもしれない。それともわたしの心臓だろうか。犬の場合は、危険が迫っているときに心臓がこんな音をたてる。
「どうしたんだ?」
のどの奥から鼻から抜ける低い声でたずねた。普通の人には「クーン」としか聞こえないだろうが、動物の言葉を聞き取ることのできるカンは振り向いた。その目が何かを訴えている。
いつもと様子が違う。再び窓の外を見ている。誰かを見送っているみたいだった。わたしは自分が夢のなかで見送ったもののことを思い出した。それは暗闇へ消えていく二人の後ろ姿だった。
頭のなかをホタルが舞っている。再び夢に引き込まれる心地がして一つの情景が浮かんだ。雨のなかを車が走っていく。向こうからもう一台の車が近づいてくる。二つの車は急なカーブへ近づいていく。雨は激しく降っている。
そのとき不意に未来がやって来た。わたしにも一瞬のひらめきのようにしてわかった。片方の車に乗っているのは、深夜の仕事を終えたサユリさんだ。彼女を迎えに行ったツツとフウちゃんも一緒に乗っている。
カンはじっと窓の外を見ている。そういうことなのか。あの子の背中に向かって、わたしは悲痛な声で訴えた。
「どうするつもりだ?」
もしカンが普通に言葉を話せたら、警告を与えることはできるだろう。雨の日の深夜に車を運転してはならない。かならず大変なことが起こるから。しかしフウちゃんやサユリさんが本気にしたかどうかわからない。言葉にすると、いかにも馬鹿げたことに聞こえる。
人間の言葉は理解できることだけを伝える。わたしたちが夢で目にしたものは理解を超えている。夢だけがリアルだった。