文芸連載小説
夜更けにハハは電話で誰かと長く話し込んでいることがあった。会話の一部は、床に寝そべっているわたしの耳にも入ってくる。
「なくしたものにしがみついてばかりいる」と彼女は言った。「あの人のことを考えずに済むなら、なんだって差し出したい気分」
そんなときのハハが、遠い目をしていることは見なくてもわかる。いなくなった人の重みで、身体中の骨がキシキシ音を立てていることも。
「出会った日のことをよく思い出すの。これといったことは話さなかったけど、いちばん大事なことを話しているという実感があった。それからずっと、わたしたちは二人で一つだった。いまは自分を割れたグラスみたいに感じる」
トトが亡くなってから、ハハはカンの部屋で寝るようになった。自分のベッドで寝ると、横でトトが寝ている夢を見るらしい。目が覚めるたびに、ひどい悲しみにとらわれる。それでハハはカンのベッドのそばにマットレスを敷いて寝ることにした。
あるとき夜中に目覚めたハハは、起き上がって部屋のなかを不思議そうに見まわした。それから眠っているカンの顔を覗き込んだ。気配を感じて、あの子は静かに目をあけた。
「足音が聞こえたような気がして目が覚めたの」。ハハは言い訳じみた口ぶりで言った。「見るとドアのところにトトが立っている。なんだ、夢だったのか。無事でよかった、ずいぶん心配したのよ。声をかけようとすると、それはあなただった。まるでトトが生まれ変わって帰ってきたみたいに」
ハハはカンの肩にそっと手を置いた。
「行かないでね」。祈るように言った。「絶対にいなくならないで」
翌朝、ハハはカンと一緒にパンを焼くことにした。トトによれば、マグロのような回遊魚は泳がないと死んでしまうらしい。人間も同じで、何かしないと死んでしまうのかもしれない。ハハは生きつづけるためにパンを焼くことにしたのだろう。
「大事なのは、何かをやりつづけることだよね。一つのことに没頭して何も考えないこと」
そう言って、思いつめた顔で一心に小麦粉をこねていた。少しでも気を緩めたら、自分が小さな塊になって床に散らばってしまうかのようだった。
毎日、ハハは欠かさずパンを焼いた。亡くなったトトの想い出を、美味しいパンのようなものにしたいと思ったのかもしれない。いつか膨らんで、いい香りを立てはじめることを願っていたのかもしれない。