文芸連載小説

作/片山恭一  画/リン

第5話
ハハの強化トレーニング

2020年08月16日号

都会で暮らしていたころから、カンは迷子になってばかりいた。街はおろか家のなかでも迷子になってしまう。

「いったいどうなっているのかしら、この子の頭のなかは」
「宛先を書かずに手紙を投函するようなもんだなあ」

頭のなかに積み木が入っているために、地図を入れるスペースがなくなったのかもしれない。途中で行方不明にならないように、朝はハハが車でカンを学校へ連れていった。帰りは友だちが家の近くまで送ってくれる。あとは、わたしが引き受けるという寸法だ。

きっと言葉も同じように、あの子の頭のなかで迷子になってしまうのだろう。道は複雑に入り組んでいる。何かを言おうとしても、途中で言葉とはぐれてしまう。唯一、口までたどり着くことのできる言葉は、「トト」と「ハハ」だった。もう一つ問題があった。いや、問題はまだ無数にあるのだが、とりあえずの問題は時計が読めないことだった。時計の針にどういう意味があるのかカンにはまったく理解できなかった。そこでハハは強化トレーニングを施すことにした。まず厚紙で時計を作った。時計の文字盤の描かれた紙の上で、短い針と長い針を動かして時間を答えさせる。

最初のうちは間違えてばかりいた。きっと二本の針の関係が理解できなかったのだろう。そのうち正しく答えられるようになった。おぼえてしまったのだ。たとえば短い針が9で長い針が11なら8時55分という具合に、何百通りものパターンを頭に叩き込んだ。

つぎにハハが考えたのは暗記カードだった。表に問題を書き、裏に答えが書いてある。苦手な算数の問題は全部カードにしておく。カンは休み時間にカードを見て、裏の答えをおぼえていった。足し算の問題も、数を足すのではなくて数字を記憶する。教科書に出ている問題は一つ残らず頭に入れてしまったので、算数のテストでもいい点がとれるようになった。

驚くべき記憶力のおかげで、迷子にもなることも少なくなった。途中で目にするものをみんなおぼえてしまったのだ。どこかへ行くときには記憶を順番にたどっていけばいい。一度通った道はすっかり頭に入ってしまうので、下校時にわたしが家の近くまで迎えにいく必要はなくなった。

ある人がこんなことを言っているらしい。「ライオンが言葉を話せるとしても、人間はライオンを理解することができないだろう」。あの子にとって学校の友だちはライオンみたいなものだ。ライオンたちはカンにもわかる言葉を話している。しかし彼らを理解することができない。なぜライオンたちは笑っているのだろう?

カンに話しかける者はいなかった。話しかけたところで、言葉が返ってこないことをみんな知っているからだ。言葉はいつも窓の外にあった。楽しそうにしているライオンたちを見て、自分も加わり一緒に楽しみたいと思うけれど、どうしても彼らを理解することができなかった。

相関図