文芸連載小説

作/片山恭一  画/リン

第7話
人生一度きりのお願い

2020年09月13日号

夜中の三時ごろになると、寝室から小さな物音が聞こえてくる。ハハが起きだす音だ。彼女はこの時間からパン生地をこねはじめる。

二時間ほどすると、今度はトトが起きてくる。トトの朝が早いのは波乗りをするためだ。おかげで、わたしも朝は忙しい。

その日いちばんの波は早朝に立つことが多い。いい波があると確信した日には、ほとんどハハと同じ時間に起きだしてくる。一刻も早く海に入りたいのだ。気持ちはわかるが、付き合わされるほうは迷惑である。

「真っ黒な海のなかで夜が明けるのを待つのって最高だな」

トトを見ていると、人間は安易に興奮や喜びを追い求める動物だということがよくわかる。その点、犬は冷静な生き物である。危険は臭うのだ。恐怖も臭う。だから波に言い寄るような正気の沙汰とも思えないことはしない。人間がわたしたちを相棒に選んだのは正解である。

トトがサーフィンをするのは、国道をしばらく走ったところに広がる外海だ。道端に車を停め、ボードを担いで、かなり急な斜面を下っていかなければならない。一方、わたしとカンが散歩に出かける砂浜は入り江になっているので、波はそれほど高くない。小さな港もあって漁船やボートが係留してある。

浜辺から沖を見ると、前方に平べったい小島が浮かんでいる。全体が大きな一枚岩でできていて、高いところでも海から五メートルほどしかない。島は何千本ものヤシの木で覆われ、木立のなかに一言主という神さまを祀った古い祠がある。

あの夏の日、地面が揺れて海が持ち上がり、ボートハウスをねぐらにしていた憐れな犬が犠牲になったときも、祠は流されることなく無事だった。たくさんの魚が島に打ち上げられたにもかかわらず、海はヤシの林のなかまでは入ってこなかった。巨大な岩が波の力を弱めてくれたらしい。

この島には不思議な言い伝えがある。何年かに一度、月と地球と太陽の息がぴったり合って海が沖まで遠ざかる日がある。島は陸とつながり、歩いて渡れるようになる。そのときに一言主の神さまにお願いをすると、願い事がかならずかなうという。ただし願い事は一つだけで、しかも一生のうちに一つだ。それを使ってしまったら、残りの人生は願い事なしでやっていかなければならない。

ハイリスク・ハイリターンの神さま、とトトは言っている。よくわからないが、難しい問題だと言いたいのだろう。たしかに、わたしが犬人生をかけて、一生に一度きりのお願いをするとなれば、慎重に事を運ぶ必要がある。願い事の中身も大事だが、いつ使うかも思案のしどころだ。いま使うべきなのか、もっと先まで取っておくべきなのか。

カンはときどき島のほうを見ていた。かなえてほしい願いがあるのか。それを使うのは、いまなのか。どっちにしても島と陸がつながる日を待つしかない。

相関図