文芸連載小説
ハハの一日は忙しいが、とくに朝は忙しい。いちばんいいタイミングでパンを焼かなければならないからだ。発酵のスピードは、その日の気温によって微妙に異なる。暑い季節はパン生地の発酵が早く進むので、休むまもなく作業はつづく。
そんな苦労の甲斐があって、ハハの焼くパンの味は町でも評判だ。評判を聞きつけて、ある日、ツツが店にやって来た。彼女がパンよりも先に見つけたのは、店の隅のテーブルで暗記カードをめくっているカンの姿だった。
「きみはあの日のサイレントボーイ」
「あなたは」
ショーケースの向こうから、ハハが不審そうにたずねた。
「ツツです」
「カンを知ってるの?」
彼女は息子のほうを見た。
「カンっていうのか。だって喋らないんだもん」
「カンは喋らないの」
「どうして」
「どうしてかしらね。それよりパンを買いにきたんじゃないの」
そんなふうにしてツツとハハは出会った。トトが出会うのも時間の問題だが、いまはツツの家族の話をしよう。
フウちゃんはツツのおとうさんでアフリカ人だ。おかあさんのサユリさんは日本人である。フウちゃんは打楽器奏者でサユリさんはジャズピアニスト。先ごろオープンしたリゾートホテルの夜のショーに、半年間の契約で出演することになった。もっともショーに出るのはフウちゃん一人で、サユリさんのほうはホテルのラウンジでピアノを弾くのが仕事である。ツツはカンと同じ小学校に通っている。苦手な授業を抜け出した二人は、校庭の松の木の下で出会ったというわけだ。
打楽器奏者であるフウちゃんは、世界中のいろんな打楽器を集めている。自分で手作りすることもある。
なかでも得意なのはトーキングドラムというアフリカの太鼓で、リズムや音の高さによって、遠くの人にいろんなことを伝えることができる。太鼓で伝えるメッセージを太鼓言葉という。フウちゃんが生まれたところは、この太鼓言葉がとくに発達していて、彼は太鼓言葉を操る名人なのだそうだ。
「いつかわたしも、おとうさんにトーキングドラムを習うつもり。うまく叩けるようになったら、きみにも教えてあげるね。そしたら太鼓言葉で話ができるじゃない」
カンのなかではじめて何かがつながったのは、そのときかもしれない。ツツはライオンではない。心にほのかな温かみをもたらすものだ。彼女とつながっているのを感じた。自分ともつながっているのを感じた。短い針が9で長い針が11なら8時55分という具合に、カンは自分たちの関係を理解することができた。