「かりもの」のご守護に眼を向け

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「かりもの」のご守護に眼を向け

06月14日号

新型コロナウイルス感染症の流行以後、この状況を教理的に思案するための試みがなされている。そして、そのいくつかは、

みのうちにとのよな事をしたとても やまいでわない月日ていりや(十四号21)
せかいにハこれらとゆうているけれど 月日さんねんしらす事なり(同22)
これからハ心しいかりいれかへて よふきづくめの心なるよふ(同24)

という「おふでさき」第十四号の「コレラ」に関するお歌を端緒としている。

この第十四号の表紙には、「明治十弐年六月ヨリ」と記されている。宇野晴義著「天理教資料研究(二)」(『ビブリア』53号)によると、「第十四号」の字は秀司先生によるものであるが、「明治十弐年六月ヨリ」の部分は山澤良治郎が記したものとされている。そして、これ以降、第十七号終わりまでの表紙字は、秀司先生に代わって同氏が筆を執ったと考えられている。

ここで注目したいのは、この明治12年6月に、山澤良治郎がコレラのような身上になっているということである。同氏の入信は元治元年にさかのぼり、それまでも毎月お屋敷に参詣していたが、この身上を契機に道一条となり、お屋敷の御用に専心するようになる。

良治郎の息子である為造の書きもの(「山沢為造略履歴」『復元』22号)によると、明治12年6月、良治郎が突然コレラのように上げ下しに苦しみ、水を飲むことはおろか、唾を飲み込むことさえできなくなってしまった。

すぐに為造がお屋敷へ行き、良治郎の容体を申し上げると、教祖は「こちらへつれてきなされ」とおっしゃられた。早速、本人を連れて御前に赴くと、教祖は「これをあがってみなされ」と仰せられ、カステラを一切れ下さったが、良治郎はのみ込むことができなかったという。

その後、3日間お屋敷に滞在し、その間、お屋敷の先生方に三座のお願いづとめを勤めていただくも、身上はなかなかご守護いただけなかった。なお、お願いづとめには教祖もその場へお出ましくださったという。

水ものどを通らない病人がこれ以上お屋敷に滞在すると迷惑がかかるということで帰宅。翌朝、辻忠作先生が見舞いに来て、「家内中、神様のお話をおききくだされて、家内中、心そろえて、精神をお定めくだされて、しっかり神様にお願いくだされ」と諭された。

そこで、家内中が揃って、真からお道の話を聞き、相談。良治郎は、今日限り、家ではあてにせず、おぢばで道のためつとめさせていただくという決心を定め、家族でお願いづとめを勤めて、辻先生からおさづけを取り次いでもらった。すると、身上は鮮やかにご守護いただき、翌日には歩いておぢばへ帰れるまでに回復したという。

そして以後、良治郎は、弁当を持参して毎日おぢばへ出させていただき、お屋敷の御用をつとめることになったというのである。

このとき、家族が辻先生から、どのようなお話を聞いたのかは定かでないが、その一端は、良治郎が明治14年にまとめた「此世始まりの御話控え」に見ることができる。そこには、次のような一節が記されている。

「これまでハこの親さまへでるまでハ わがからだあハわがものなると
をもていたこゝろちがいやこのたびハ 親さまよりのをしへをきいて
はつめしてしんぢつこゝろまことふと おもうこゝろハかなゑのこらず」(『こふきの研究』)

「わがからだは、わがものである」というのを当然のことのように思ってきたが、これが「こころちがい」であったと、「かしもの・かりもの」の真実に目覚めた驚きと喜びが記されている。

コレラという身上を通して、「かりもの」のご守護の中に生かされて生きているということを実感し、その喜びに眼が開かれたのではないだろうか。それはまた、「陽気づくめ」の心とも言うことができるだろう。

以上、冒頭に掲げたお歌を理解する一助として、先人の信仰の歩みをたずねてみた。

現在の状況と重ね合わせるとき、足下の「かりもの」のご守護に眼を向けることが、あらためて大切ではないかと思う次第である。(昭)

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