不寛容さが目立つ社会で

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不寛容さが目立つ社会で

11月22日号

新型コロナウイルス感染症の拡大は、いまだ予断を許さない状況である。

このたびのコロナ禍では、他者に対して尋常ならぬほど不寛容な人々が見受けられた。「自粛警察」と揶揄されるほど極端に他者の言動を監視し、感染者の個人情報をインターネット上にさらしたり、自治体の要請を受けて時短営業や休業を行っている飲食店に対しても、罵詈雑言の張り紙をしたりする人々が現れた。

また、学校現場での集団感染が報じられると、その学校に通う生徒や学生が、差別や中傷にさらされることもあった。天理大学ラグビー部で集団感染が発生した際にも、部員ではない学生が、アルバイト先や教育実習の受け入れ先から不当な扱いを受けることがあった。

これらを背景として、8月には文部科学大臣が、新型コロナウイルスは感染症対策を徹底しても誰もが感染する可能性があり、感染した人が悪いということではなく、感染者に対する差別や偏見、誹謗中傷等を許さないことが第一である、との声明を発表している。

脳科学者の中野信子氏によれば、自分が絶対に正しいと思う正義感から他者を攻撃すると、脳内に快楽物質が放出され、その快楽にふけった状態を依存症になぞらえて「正義中毒」と呼ぶ。日本社会に根づいている周囲の行動に合わせなければならないと感じさせる「同調圧力」と、近年急速に普及したSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)とが相まって、誰もがそういった状態に陥る危険性があるという。

また、統計的手法を用いてSNS上の発信のメカニズムを研究している経済学者の山口真一氏によれば、SNS上で極端なまでに誹謗中傷を繰り返し、いわゆる〝ネット炎上〟に加担する人々の社会的属性を分析したところ、際立った傾向は見られず、むしろ「どこにでもいるような人たち」であることが分かった。

ただし、炎上1件当たりに参加している人は、ネットユーザーの0・0015㌫(およそ7万人に1人)と極めて少数であり、「相手の意見が間違っているなら、どこまでも主張して相手を言い負かしたい」等の少し特殊な価値観を持っていて、心の奥底には、直接の攻撃対象とは別の、生活や社会に対する不満を抱えているという。

偏見や差別、誹謗中傷は決して許される行為ではない。場合によっては法的措置も必要だろう。しかし信仰者としては、歪んだ正義感を抱いた不寛容な人を、いたずらに批判するだけでなく、こういった事象を通して自らのおたすけの姿勢を振り返ってみることも必要ではないか。

秋季大祭の神殿講話にあったように、私たちのおたすけは、あるべき姿や理想を説くのではなく、悩み苦しむ人に共感し、共に悩み苦労しつつ、教祖の教えられた生き方を実行するための心の使い方を伝えていくことである。

他者の苦しみに寄り添うことなく、自分が教理的に正しいと思うことだけを一方的に押しつけることになってはいないかと、省みる謙虚さを持ちたい。

教史を見れば、明治29年4月6日の内務省訓令甲第十二号、いわゆる秘密訓令によって、本教のおたすけ活動が「風紀紊乱(男女混淆)」「医薬妨害」「寄付強制」だと断じられると、数多くの新聞や書籍で、いわれなき誹謗中傷にさらされた。

そのときの「おさしづ」に「反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの」(明治29年4月21日)とある。

たとえ、お道に反対する人であっても、親神様から見れば等しく可愛い子供であり、この道を信じる者なら、なおさらである。しかし、たとえ信仰していても、思召に沿って通れないのであれば、反対していることと同じである、と戒められている。

どこまでも他者に対する温かい心と、教えにのっとった生き方を忘れず、身近なおたすけに取り組みたい。

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