“新たな日常”に思うこと

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“新たな日常”に思うこと

06月07日号

4月7日に最初の「緊急事態宣言」が発出されてから2カ月。宣言は、5月25日に全国的に解除され、これを契機に少しずつ社会に活気が戻ってきていることをうれしく思う。だが半面、感染の第2波の懸念が無いわけではない。引き続き、感染予防に努めつつ、生活していくことが必要だ。しかし、そんな以前とは違う“新たな日常”だからこそ、あらためて気づかせてもらえることもあるだろう。

たとえば筆者は、4月1日から毎朝検温を続けている。これは勤務場所の決まりでしていることだが、検温して平熱と確認できたとき、毎回「よかった」という安堵感とともに喜びが込み上げてくる。

特に感染拡大が日に日に深刻化した4月は、自分もいつどこで感染するか分からないという気持ちになり、もしも感染して肺炎を発症することにでもなったら、周囲に多大な迷惑をかけることになる。また、発熱しただけでも周囲に大きな心配をかけてしまうと思うと、毎日気が気でならなかった。そうした心理状態を経験したからこそ、平熱で一日を迎えられることがとても有り難く思えるのである。

体温、すなわち「ぬくみ」は、をもたりのみことのお働きと教えていただく。親神様の十全のご守護の中で、最も中心的なお働きである。

感染の不安は無くならないが、そんな中もお道の者は、日ごろ我が身に頂いている親神様のご守護に目を向けることで、不安を喜びに替えて暮らすことができると思う。

ところで、教祖は「まま(飯)食べるのも月日やで。もの言うのも月日やで。これがわからんが残念残念」と仰せになったと聞く。

調べてみると、このお言葉の背景と思われるエピソードが『みちのとも』(昭和9年3月5日号)に掲載されている。

明治17年夏、京都から一人の男性が講元に誘われて初めておぢばに帰った。当時、京都では感染症のコレラが猛威を振るっていて、その人は時節柄、お詣りでもしておけば損はないだろうと思っての参拝であった。

お屋敷に着いてお目通りすると、教祖は、その人にひと言だけお言葉を下さった。それが「まま食べるのも月日やで。もの言うのも月日やで。これがわからんが残念残念」という謎めいたお言葉だった。しかし、お言葉の意味が分からなかったその人は、なんだか馬鹿にされたような気持ちになって京都へ帰っていった。

それから間もなく、その人はコレラに罹り、激しい上げ下しと脱水症状で、瀕死の状態に陥った。喉が焼けるように渇いて水を欲したが、言葉を出すことすらできない。苦悶する中で、ふと思い浮かんだのが教祖のお言葉だった。

教祖が下さったお言葉に対して、自分で食べ、自分で言葉を発するのが当たり前と思って反発していたが、いま自分が水を飲みたくても飲めず、水が欲しいと言いたくても言えない状況になったことで、実は食べるのも話すのも自分の力ではなく、もっと大きな力が働いているからだと気づいた。教祖のお言葉の意味をはっきり悟ることができたのだ。その後、鮮やかに全快のご守護を頂いたという。

コレラという凄まじい感染症を鮮やかにおたすけいただいた稀有のエピソードに、いまのコロナ禍にも通底する、親神様の思召の一端を窺い知ることはできないだろうか。

おさしづに「めん/\かりもの承知。かりもの分かっても、かりものの理自由分からねば何もならん」(明治20年10月12日)とお示しいただく。単に身体は親神様からのかりものだと承知しているだけでなく、身の内に頂く自由のご守護が分からねば何にもならないとの仰せである。

新型コロナウイルスの影響を受ける日常は、これからしばらく続くだろう。ならば、身の内でお働きくださる親神様のご守護の理に感謝する心を一層高め、喜びの日々を通っていきたい。(諸)

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